南禅寺

【南禅寺】《臨済宗南禅寺派大本山》℡075-771-0365
 正応4年(1291)、大明(だいみん)国師(こくし)(※無関普門禅師)が、第90代亀山天皇が造営した離宮を賜わり、禅林禅寺としたのに始まる。南禅寺とは禅林寺の南。室町初期足利義満の時、臨済宗(りんざいしゅう)寺院を統制するために設けた制度、※京都五山の上位に列せられ、禅宗の最高位を誇り、隆盛を極めた。室町中期以降、応仁の乱で焼失、桃山時代、“黒衣(こくい)の宰相(さいしょう)"といわれた以心(いしん)崇伝(すうでん)によって再興。江戸時代には塔頭(たっちゅう)25ヶ寺を有したが、明治維新に統廃合され、その跡地は知行(ちぎょう)返上(へんじょう)を命じられ約3分の1に減少し現在は12ヶ寺。南禅寺界隈の多くの富豪の別荘は、各塔頭の跡地。
※無関普門禅師(1212-1291) 鎌倉中期の臨済宗の僧。信濃の人。南禅寺派の祖。諡号(しごう)は仏心禅師・大明国師。東福寺の聖一(せいいち)国師(こくし)円(えん)爾(に)弁(べん)円(ねん)に禅を学ぶ。1251年入宋、12年後に帰国。1291年、南禅寺開山。
※京都五山 上位・南禅寺 ①天龍寺 ②相国寺 ③建仁寺 ④東福寺 ⑤万寿寺


■総門 もと南禅寺橋付近にあったが、琵琶湖疎水工事のため東へ移築。
■勅使門(ちょくしもん)[重文] 御所の日ノ御門を1641年、明正(めいしょう)天皇(後水尾天皇第2皇女。東福門院和子(まさこ)の娘で徳川秀忠の孫)より下賜(かし)されたもの。
◆石灯籠 三門前に佐久間(さくま)勝之(かつゆき)寄進、日本一大きいという石灯籠。佐久間勝之は佐久間盛次の四男で母は柴田(しばた)勝家(かついえ)の姉。関ヶ原の戦いでは東軍につき、常陸北条1万石の大名になる。戦後、信濃・長沼1万8千石に加増される。
■三門[重文] 寛永5年(1628)、※藤堂(とうどう)高虎(たかとら)が大阪夏の陣で亡くなった人の菩提を弔うために寄進。京都三大門の一つ(他に知恩院三門・東本願寺大師堂門)。上層内部は宝冠(ほうかん)釈迦(しゃか)如来(にょらい)、十六羅漢のほか徳川家康・藤堂高虎・金地院崇伝の像を安置。三門とは、主に禅宗で寺の本堂の前にある正門で、上層に仏壇を設け、左右に山廊を付ける。禅宗では本堂を涅槃(ねはん)に擬し、そこへ入る端緒(たんしょ)である空・無相・無作の三解脱門(げだつもん)を象徴したものと解釈される。歌舞伎『楼門(さんもん)五三桐(ごさんのきり)』 歌舞伎の中での名せりふ、石川五右衛門の“絶景かな"で有名。三門に天下の盗賊石川五右衛門が棲(す)んでいたという。しかし、三門は五右衛門の死後30年後の建立。
■法堂(はっとう) 明治28年焼失、同42年の再建で仏殿(ぶつでん)を兼ねている。禅宗の生命とも云うべき問禅、開堂等法式行事の行なわれる場所であり、公式の法要もみなこの堂で勤められる。本尊釈迦如来と左右脇(きょう)侍(じ)には普(ふ)賢(げん)・文殊(もんじゅ)菩薩を安置。天井の蟠(ばん)龍図(りょうず)は今尾景年(いまおけいねん)(1845-1924)筆。
■方丈[国宝] 大方丈と小方丈からなる。大方丈は御所の清涼(せいりょう)殿(でん)を拝領移築、中央仏間には聖(しょう)観音(かんのん)立像を安置。広縁の欄間彫刻、天井、板扉の形式とともに近世宮室建築の姿を伝える遺構。狩野元信・永徳などの障壁画[重文]の124面がある。小方丈は伏見城の遺稿と伝え、「虎の間」と呼ばれる三室からなる。襖に描かれた竹林群(ぐん)虎(こ)図(金(きん)碧(ぺき)障壁画(しょうへきが))の中の『水呑(みずのみ)の虎』は、狩野探幽筆の傑作と伝える。
◆方丈庭園[名勝] 『虎の子渡しの庭』と呼ばれ、流れを渡る虎の親子に見立てている枯山水庭園。伝・小堀遠州作。竜安寺の石庭にも共通するが、入り口に近いところの石は大きく、向こうにいくにしたがって石が小さくなり、庭を広く見せようとする遠近法を使っている。
■水路閣(すいろかく) 1887(明治20)年起工、1890(明治23)年3月竣工。延長93.17m幅4.06m水路幅2.42m、煉瓦造アーチ水路橋。田辺朔郎(たなべさくろう)設計。琵琶湖疎水の支流で、毎秒2トンの水が流れる。
※藤堂高虎 弘治2年(1556)近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)に生まれる。元亀元年(1570)15才の時、浅井氏に仕え姉川の戦いで初陣し、その後豊臣秀吉の弟秀長に仕え各地を転戦し、文禄元年(1592)に紀伊国粉河で1万石を与えられはじめて大名となる。その後、秀吉の下で2度の朝鮮出兵に参加し、秀吉直属の大名となる。秀吉の死後は徳川家康と親しくし、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは大いに奮戦。築城の名手といわれた高虎は家康の命により、数多くの築城や修築を行い、津・伊賀上野城主となる。大坂冬の陣、夏の陣では先鋒として戦い、元和2年(1616)に27万3千石余となり、家康の死後は日光東照宮の造営にあたり、元和3年には32万3千石余の大名となる。藤堂高虎は、戦国を駆け抜けて立身出世した傑出した武将といえる。享年75歳。

研修会第9回『豆腐を極める』参照
□寺と豆腐について 豆腐は僧が中国から製法を伝えた。はじめは、僧が寺内で豆腐を作っていた。そのうちに、豆腐を商いするものがあらわれ、精進料理とむすびつき、湯豆腐屋が寺の門前に店を構えはじめた。五山の上位である南禅寺、一位の天龍寺などは、かなりの需要があって、今日に至っているように思う。
□奥丹 350年前、丹後屋といい、精進料理を作っていた。丹後屋は奥、中、口と三軒あったが、いつしか、中と口の丹後屋が絶え、奥の丹後屋だけが生き残った。湯豆腐専門になり今日まで栄えている。ちなみに、奥丹はもとからここにあったのではなく、聴松院の境内を明治時代に寺から借地したものという。