三室戸寺の蓮が見頃です。
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下記は京都の「穴場ースポット」を挙げてみました。4時間~からの観光をお願いいたします。お客様の興味・お時間にあわせて、プランを設定いたします。お気軽にご相談下さい。【観光見所エリア別】
※京都駅~清水寺~祇園~銀閣寺~大原周辺
東本願寺庭園、枳殻邸
東本願寺の別邸で、もとは生垣に枳殻(からたち)が植えてあったため、枳殻邸と呼ばれる。この地は、もともと平安初期嵯峨天皇の皇子・左大臣源融(みなもとのとおる)が、奥州塩釜の景を移して難波から海水を運ばせた六条河原院苑池の遺蹟。その後、本願寺13世宣如(せんにょ)上人が徳川家光からこの地を与えられ、石川丈山と謀って庭園を築き、隠退所とした。苑内から京都タワーが見える。
角屋もてなしの美術館
江戸期の饗宴もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構。揚屋とは、江戸期の書物の中で、客を「饗(もてな)すを業とする也」と定義されているところによると、江戸期の民間の大型宴会場。大座敷に面した広庭に必ずお茶席を配するとともに、庫裏と同規模の台所を備えていることを重要な特徴。幕末には西郷隆盛や新選組が利用したことで有名。期間3月15日~7月18日、9月15日~12月15日
方広寺の梵鐘
慶長19年(1614)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。重さは82.7t。因みに知恩院の鐘は約70t。東福寺の僧、文英清韓の撰文になる問題の銘「国家安康・君臣豊楽」は今なお歴然と判読される。また、鐘の内部には「淀君幽霊姿」と称する斑点がある。この鐘によって豊臣氏が滅亡する。大阪出陣の理由を正当化するための証拠物件として残されたのであろうか?
智積院庭園及び障壁画
岩下志麻出演のメナードのCMでおなじみの庭園。紀州根来山の塔頭・智積院がこの寺の原形。戦国時代、天正13年に豊臣秀吉の根来攻めにより堂塔伽藍は灰になる。江戸時代の初め、豊臣秀吉が長子鶴松の菩提を弔うために建立した祥雲寺跡のこの地に、徳川家康の寄進により根来寺の智積院は再興された。のちたびたびの火災にあって建物を失うが、長谷川等伯の障壁画[国宝]が残る。
法住寺と忠臣蔵
この場所は、かつて大きな寺領を誇る「法住寺殿」があった。法住寺殿は、後白河法皇が御所を作ると共に、自分の死後を守る墓を敷地内に造営したもの。木曾義仲によって焼き討ちされ、その後、後白河上皇がなくなると、法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続する。元禄期には大石内蔵助が参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木造が安置されている。
養源院と俵屋宗達
豊臣秀吉の側室淀君が、その父・浅井長政の追善のため建立。淀君の妹に当たる徳川秀忠の夫人・崇源院(江・ごう)によって再興。関ヶ原の前哨戦に伏見城落城の際、徳川の家臣・鳥居元忠以下の将士が自刃して果てたときの板間を、その菩提を弔うために天井に利用した血天井がある。建仁寺所蔵「風神雷神図屏風」を描いた俵屋宗達の杉戸絵「唐獅子に白象」「波に麒麟図」は傑作。
光明院「虹の苔寺」
1391年に創建された東福寺の境外塔頭。方丈前に広がる枯山水庭園は、東福寺方丈庭園、龍吟庵と同じく、昭和の作庭家、重森三玲の作品。「波心庭」と呼ばれる庭園は、「光明」をテーマに、大海原を表す白砂と巨石が光のごとく林立する庭。背後のサツキやツツジの大刈込みで雲紋を表現し、高台の雲上には茶亭「羅月庵」。虹の苔寺」という美しい通称を持つ。
雲龍院と写経
泉涌寺別院。1372年、後光厳上皇の創建。開山は竹巌聖皐(しょうこう)。後円融天皇の綸旨によって妙法写経が行われ、今日に受け継がれている。後小松天皇も帰依し発展する。現存する日本最古の写経道場で、誰でも気軽に写経を体験できる。写経する時に使用する机は、後水尾天皇によって寄進された机。本堂・龍華殿、寺宝の絹本着色後円融院宸影は土佐光信筆で重文。
清閑寺と小督局
かつては清水寺と並ぶ大寺。「平家物語」のヒロイン、小督局が23歳のときここで出家、高倉天皇の菩提を弔い44歳でこの世を去ったといわれる。今に残る宝筺印塔が小督の墓と伝わる。庭には大きな石があり、この位置から扇を開くように京都市街が見える。丁度、扇の要の位置に当たることから要石(かなめいし)と呼ばれ、この石に願いを掛けると叶うという信仰がある。
長楽寺と建礼門院
建礼門院が出家したことで有名。805年(延暦24)に桓武天皇の勅命によって最澄(伝教大師)を開基として創建。古くから歴代の天皇の帰依が厚かった。創立当初は比叡山延暦寺の別院として建てられた天台宗の寺であったが、鎌倉初期に浄土宗に改宗。しかし、その後また、室町初期に当時の一代の名僧・国阿上人に譲られ、時宗となる。明治39年には、時宗の総本山であった七条道場金光寺と合併する。
法観寺と五重塔
法観寺五重塔は八坂の塔と呼ばれている。聖徳太子が仏舎利三粒を納めた塔を建てたことに始まるという。現在は、1440年に足利六代将軍義教が再興、心礎は創建当初の飛鳥時代のまま。平安時代、三好浄蔵の加持祈祷により、傾斜していた八坂の塔を一晩で元に戻したという有名な伝説を残す。戦乱の世では、塔の眺望の良さから、塔をめぐっての争奪戦や陣を示す戦旗が翻ったとの歴史も伝わる。
日向大神宮と天岩戸
神宮の裏山には戸隠神社を祀る天岩戸があり,くぐり抜けると心身の穢れが払い清められ、開運・厄除けになるといわれている。祭神は、天手力男命(あめのたぢからのみこと)。近年、パワースポットとして、ひそかに人気がある。京都最古の社と伝え、第23代顕宗天皇の御代に日向国高千穂の峰の神跡を移したのが起こりと伝える。天智天皇が神田を寄進、鎮座の山を日ノ山と名づけた。
金地院と庭園
足利義持が創建。以心崇伝が現在地に再興。崇伝は徳川家康に信任され、天下僧録司に任じられ、“黒衣の宰相"と呼ばれた。枯山水庭園『鶴亀の庭』は小堀遠州作。前面の白砂は宝船を象徴すると同時に海洋を表す。長方形の大きな平面石は背後の東照宮の遥拝石であり、その右が鶴島、左が亀島。中間に群仙島、前方には蓬莱石組、背後の大刈込は、山々の深山幽谷を現すという。特別名勝。
金福寺と芭蕉
平安時代に創建。天台宗であったが、江戸時代、圓光寺の鉄舟和尚によって再興され臨済宗南禅寺派の寺に。鉄舟和尚と親交の深かった松尾芭蕉が京都を旅行した際に滞在したことで知られ、周辺の住民によって芭蕉庵と呼ばれるようになった。その後荒廃するが、芭蕉を敬慕する与謝蕪村とその一門によって、1776年再興された。蕪村はこの寺の後ろの丘に葬られた。
阿弥陀寺と弾誓上人
大原の奥、古知谷の幽遠な地にある阿弥陀寺。1609年、弾誓(たんぜい)上人が開山した念仏道場。弾誓は体質を樹脂化したうえで自ら石棺に入り即身仏となったと伝えられる。本堂脇の巌窟内の石棺には弾誓の遺骸(即身仏)が安置。日本で最南端の即身仏とされるが、明治初年に現在の石棺に収められた後は一切公開されていない。石棺にはすぐ近くまで行くことができる。
志明院「もののけ姫」
『こだわりコース』護摩洞窟では空海が鎮護国家の祈祷を修したところと伝える。歌舞伎狂言「鳴神(なるかみ)」はここが舞台。竜神をこの洞窟に閉じ込めた鳴神上人は、雲の絶間(たえま)姫の色香に迷い、止雨の法力を失って雨が降ったという伝承。新聞記者だった作家・司馬遼太郎は、この「志明院」に泊まり、奇妙な体験をする。その経験を宮崎駿監督に話したことにより、「もののけ姫」は誕生?
峰定寺と「美山壮」
『こだわりコース』鳥羽法皇の御願、三滝上人観空が十一面千手観音像を安置。近世には荒廃していたようだが、現在、聖護院の支配下となり、修験道の道場となる。「美山壮」は奈良の春日大社の社家であった初代が、峰定寺の再興に共鳴し、1895年、峰定寺参りの信者のために宿坊として建てたのが始まり。三代目中東吉次が宿坊を料理旅館に増改築し、屋号を「美山荘」として現在の形を作る。
上記は京都の「穴場ースポット」を挙げてみました。4時間~からの観光をお願いいたします。お客様の興味・お時間にあわせて、プランを設定いたします。お気軽にご相談下さい。【観光見所エリア別】
※二条城・京都御所~金閣寺~嵯峨嵐山~伏見~善峯寺・西山周辺
廬山寺と紫式部
寺伝によれば、938年(天慶3)元三大師良源が北山に一宇を創建したのが起こりと伝える。現在の堂宇は天明の大火後の再建で、紫式部の邸宅跡と伝わる。庭園は昭和40年の作庭。本堂の前に白砂を敷き、絵巻物の雲をかたどって苔を洲浜形に置き、苔の上に紫にちなんで桔梗を植えている。境内には秀吉の築いたお土居跡が残る。毎年節分の日に悪疫退散を祈って行われる追儺式は特に有名。
千本釈迦堂とお亀
本堂は1227年の上棟で、京都市内現存最古の建物で国宝。本堂創建時、大工棟梁高次が柱の寸法を切り誤った。妻の亀女の提言によって無事建物を成し遂げた。そのことが世間に洩れては、夫の名声を傷つけるのを憂い、お亀は自害。高次は上棟の日、妻の冥福とお堂の無事を祈ってお亀の面を御幣につけて飾ったと言われている。今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られる。
大将軍八神社と神像
古来より方除けの神。桓武天皇が平安京遷都にあたり、陰陽道により大内裏の北西角に星神 「大将軍堂」を建て、方位の厄災を解除する社として創建。祭神は古来の日本の神ではなく大将軍一神を祀っていたが、明治時代に「神仏分離令」によって現在の形・素盞鳴尊等を祀る。収蔵庫に納める大将軍神像79体[重文]は、明治に境内の竹藪の洞穴から発見されたもの。特異なものとして著名。
だるま寺(法輪寺)
1727年創建。臨済宗妙心寺派のお寺。達磨堂には、三国一を称する起き上り達磨をはじめ、諸願成就に奉納された達磨が、およそ8000余を祀る。本堂の仏涅槃木像は金箔等身。像には帷子が掛けられている。密かにではあるが左手が抜ける。その手をとってわが身に触れるとご利益があるといわれている。また、映画創業以来の関係者400余の霊(石原裕次郎・美空ひばりなど)が祀られている。
蛇塚古墳と「秦氏」
京都府で最大の前方後円墳。6世紀末から7世紀初頭頃の築造。墳丘封土は失われ、現在は露出した石室のみ。墳丘長は約75メートルであったといわれている。飛鳥の石舞台古墳にも匹敵する規模。「蛇塚」は石室内に蛇が棲息していたことに由来。古墳は秦氏の首長墓と推測されている。石室内部は鉄枠で補強、石室の周囲はフェンスで囲われて施錠され、入室には許可が必要。
法輪寺と「十三まいり」
713年、行基が開創。829年空海の弟子道昌が虚空蔵菩薩像を安置。日本三大虚空蔵と称される。「十三参り」の寺として有名。数え13の男女が智恵と福徳を授かるために参詣する。参拝後から渡月橋を渡り終えるまで決して後ろを向いてはいけない。「後ろを振り向く事によっていただいてきた知恵が本堂に帰ってしまう」そうだ。渡月橋は法輪寺橋といわれていた。
蚕ノ社と秦氏
木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみむすび)神社、略して木島神社。一般に境内摂社の養蚕神社に因んで「蚕の社」。秦氏一族の繁栄地に創始された。本殿の西、池の中に京都三珍鳥居の一つ、三つ鳥居がある。三方正面の石の鳥居で、鳥居の中心点に石組の神座があり、そこから清水が湧き出ている。池のある森は元糺ノ森、下鴨神社の糺ノ森と関連があると考えられる。
愛宕念仏寺と羅漢
もと東山の地に奈良時代に建てられた古刹。本堂は鎌倉中期の建立で重文。大正時代に移築して現在地での復興を目指すが失敗。1955年に天台宗本山から住職を命じられた西村公朝が復興。以来、仏師として全国を飛び回る傍ら、本堂、地蔵堂、仁王門などを整備。素人の参拝者が自ら彫って奉納する『昭和の羅漢彫り』が始まり、当初は五百体が目標だったが、千二百体に達した。
石峰寺と伊藤若冲
1713年、萬福寺の第6世千呆(せんがい)禅師が開創。寛政年間に画家伊藤若冲が当寺に草庵を結び、寺の境内裏山に五百羅漢を作った。若冲の五百羅漢は磊落な筆法にて下絵を描き石上に彫らせたもので釈迦誕生より涅槃にいたるまでを中心に釈迦の一代記を描いたもの。若冲は85歳の生涯を石峰寺門前の自宅で閉じ、同寺に葬られる。写真撮影は禁止。
城南宮神苑「楽水園」
国常立尊、八干矛神、神功皇后を祭神とする神社。平安遷都のころの創建と伝えられる古い社で、方除の神として信仰を集めている。春と秋の2回行われる「曲水の宴」で有名。神苑「楽水苑」の「室町の庭」と「桃山の庭」は、中根金作氏が造園家として最初に手掛けた庭園。その後「平安の庭」「春の山」「城南離宮の庭」と、生涯をかけて作庭。枝垂れ梅は見事。
三鈷寺の絶景
比叡山横川の恵心僧都の高弟、善峯寺開基、源算上人の往生院が前身。観性、慈円、証空と続き、後に、証空上人は、往生院が在った北尾から連なる三つの尾根、中尾・南尾と善峯寺全体の三ヶ峯を、密教法具三鈷杵(金剛杵)にたとえたのか、三鈷寺と改められて、不断如念仏道場として善峯寺より独立。浄土宗西山義の派祖となる。書院からの東方に広がる京都は絶景。
正法寺「鳥獣の庭」
真言宗東寺派。754年、鑑真和上とともに唐より来日した智威大徳が隠世したのに始まる。弘法大師巡錫され42歳の厄除けのため、 聖観音を彫刻。応仁の乱には焼失したが、後、桂昌院の帰依をうけ、徳川家の祈願所となる。客殿前庭園は570坪、「鳥獣の庭」という。高知、群馬、長崎など全国2府15県から集めた鳥獣の形をした石が配されて、絵巻物「鳥獣戯画」を思わせる。
楊谷寺と独鈷水
806年、清水寺の開祖延鎮が夢告により、この地で十一面千手千眼観世音菩薩像を感得し、堂を建て安置したのが始まり。 その後、空海がこの地で修行。その際に猿が瞑れた目をここの湧き水で洗っていたのを見た空海が眼病に効く独鈷水(おこうずい)として広めた。江戸時代に第112代霊元天皇が眼病を治癒されたことをきっかけに明治に世に至るまで天皇家に独鈷水を献上していた。
上記は京都の「穴場ースポット」を挙げてみました。4時間~からの観光をお願いいたします。お客様の興味・お時間にあわせて、プランを設定いたします。お気軽にご相談下さい。【観光見所エリア別】