円山公園・下河原

■円山公園 元来、この地は祇園感神院や安養寺の境内であったが、明治の廃仏毀釈によって官に没収され、1886年(明治19)公園化された。当初は貸席・旅館が建ちならぶ歓楽街となったが数度の火災にかかって焼失。1913年(大正2)に造園家小川治兵衛の設計監督によって造園された。


■祇園枝垂れ桜(五両桜) 初代の枝垂れ桜は八坂神社(祇園感神院)境内の宝寿院の庭にあり、明治の神仏分離で境内のお寺が取り払われて、この桜が残った。明治6年頃、まさに伐採されようとしていたところ、著名な実業家で文化人の※明石博高(ひろあきら)が買い取った。伐採の業者が「切って印材にすれば五両ぐらいになる」と聞き、その場で話がまとまった。初代の枝垂れ桜が枯死したのは昭和22年。昭和2年、広沢池造園家、先代佐野藤右衛門が、枝垂れ桜の種五リットルを譲り受けて、右京区山越の庭園に植えたものが現代の2代目である。移植は24年。桜は同じ場所に連作するのを嫌うので、トラック20台分の土を入れ替えた。桜の運搬は牛車であったという。
※明石博高(ひろあきら)(1839-1910)  四条通堀川西入唐津屋町生まれ。明治時代に京都において殖産興業・医療政策・救貧政策などを中心として近代文明の指導的役割を果たした。1868年(明治元)、京都の御所内病院、明治2年大阪病院、明治3年娼妓黴毒(梅毒)治療所、明治7年京都府療病院、同年医師試験制度制定などに尽力。また勧業場・養蚕場・製紙場・製革場・牧畜場の開設、明治4年京都博覧会の開設などのほか、西陣機業振興のためジャカード織機の輸入、物産引立会社の創設などを指導した。
■下河原 八坂神社より法観寺におよぶ地域。ここは旅館・高級料亭の多いことで知られる。高台寺山から流出する菊渓(きくたに)川と清水音羽川から流れ出る轟川とか合流し、土砂が堆積する河原であったが、慶長年間、この地に隠棲した北政所の心を慰めるため、舞芸に達者な女達が集まって居を構えたのがこの町の起こりという。
■石塀小路 下河原中程を東西に抜ける狭い通路を「石塀小路」と呼ぶ。狭い路地に入ると、路面には石畳が敷き詰められ、その石は廃止された京都市電の敷石を移設したという。石塀小路の歴史は浅く、明治末期から大正初期にかけてのお茶屋の貸家がルーツ。現在は旅館や料亭、喫茶店などがある。
■長楽館 明治の実業家村井吉兵衛が1897年(明治42)に竣工した別荘。面積は1800㎡、鉄骨造り4階建。内部客室はルイ15世王朝の様式を真似ている。村井吉兵衛は、元治元年(1864)、大和大路通り五条上ルで生まれる。明治28年東山馬町に工場を建て、我が国ではじめての紙タバコの製造を行う。大正15年、享年61歳。別荘竣工後まもなく、木戸孝允の墓参のために入洛した伊藤博文はこの別荘に宿泊、井上(いのうえ)馨(かおる)、菊池京大総長等名士を多数招いて宴を催した。その時、伊藤は別荘を「長楽館」と名付けたという。
■祇園閣 大雲院の境内にある。高さ36m、鉄筋コンクリート造りの三層建、鉾先に金鶏を取り付ける。1928年(昭和3)元財閥※大倉喜八郎の別荘で、昭和3年御大典記念に祇園祭の壮観を常に披露したいと希って山鉾を模した祇園閣を建てたといわれている。大雲院は昭和48年、寺町四条から現在地に移転。
※大倉 喜八郎 明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家、中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者。ホテルオークラは息子の大倉喜七郎が創立。