建仁寺

【建仁寺】《臨済宗建仁寺派大本山》℡075-561-0190
 1202年(建仁2)、源頼家(みなもとのよりいえ)の帰依(きえ)を受けた※栄西が、中国(宋)の百丈山にならって建立した寺。京都最初の禅刹(ぜんさつ)として知られている。往時は広大な寺域を占め、足利義満が五山制度を設けると、その第三位となった。その後、しばしば兵火にあって焼失したが、1596年(慶長元)に※安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興された。また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小された。
※栄西(1141~1215年) 備中国賀陽(かや)氏の出身。11歳で仏門に入り、14歳の時に比叡山で受戒、以後、天台教学を修学する。1168年(仁安3)入宋、禅を学んで帰国後、天台復興のため禅の必要を感じ再び入宋する。臨済禅を学び、その法脈を得て1191年(建久2)に帰国。比叡山衆徒による弾圧に対し『興禅護国論』を著し、また、1199年(正治元)には鎌倉で北条政子の帰依を受け、寿福寺を建立。1214年(建保2)将軍・源実朝(みなもとのさねとも)の病気平癒のため祈祷を行い『喫茶(きっさ)養生記(ようじょうき)』を献じた。
※安国寺恵瓊(?~1600) 安芸・安国寺の僧で、東福寺退耕庵に住んだ。本能寺の変の際、毛利方と秀吉軍の和解を成立させたために秀吉の信任を得た。しかし関ヶ原の役に石田方について負けたため、捕らえられ三条河原において斬首された。建仁寺方丈裏には恵瓊塚がある。

◆風神雷神図屏風[国宝] 俵屋宗達(たわらやそうたつ)筆の二曲屏風一双(いっそう)。宗達の晩年の最高傑作。紙本金地著色で右隻に風神、左隻に雷神が描かれている。空間を生かした構図は奇抜で、豊かな装飾性と躍動感が感じられる。現在、京都国立博物館に寄託。
■勅使門(ちょくしもん)[重文・鎌倉] 銅板葺、切妻造の四脚門で、門扉に矢痕があることから矢の根門・矢立門ともいう。六波羅にあった平教盛の館門(平重盛の館門とも)を応仁の乱後に移築したと伝えられている。
■鐘楼(しょうろう)(鎌倉) 鐘は「陀羅尼(だらに)の鐘」とも呼ばれ、修行僧が寝につく亥(い)の刻(午後10時)すぎ、観音慈救陀羅尼を唱えながら、鐘を撞(つ)いたことにちなむ。鴨川の釜ヶ淵に沈んでいたのを栄西禅師が引き上げたものと伝える。
■三門 江戸時代の建築。望闕楼(ぼうけつろう)の扁額(へんがく)がかかる三間二戸、重層、入母屋造。両翼に階段があり、階上内部には観音菩薩像と十六羅漢像が安置されている。1923年(大正12)静岡県浜松の安寧寺より移建したもの。
■法堂(はっとう) 1765年(明和2)の再建。拈華堂(ねんげどう)といい仏殿と兼用。外観は重層、入母屋造だが、下の屋根は廂(ひさし)(裳階(もこし))であって、構造形式は単層。内部は敷瓦の土間、須弥壇には本尊釈迦如来座像と脇侍迦葉(かしょう)・阿難(あなん)両尊者を安置する。天井の双龍図(そうりゅうず)は小泉淳作画伯筆。2002年、創建800年を記念して描かれた。見上げる位置を変えると龍の顔の向きが変化。108畳の絵画で、麻紙(まし)を使用、墨は最上の墨といわれる「程君房(ていくんぼう)」の墨を使用している。
■方丈[重文]  1599年(慶長4)、安芸(あき)(広島県)の安国寺から移建したもの。創建当時は柿葺(こけらぶき)。1736年(享保21)の修理のとき瓦葺にかわり、昭和9年の室戸台風で倒壊し、同15年再建の際、杮葺きにもどり、さらに、同39年の修理で、銅葺に改修。近年、銅葺の損傷が激しく、「開山千光祖師八百年大遠諱法要」に併せて大法会を控え開山霊廟・本坊方丈、七堂伽藍である法堂の修復をはじめ境内整備事業を推進。大改修を終え落慶。
■方丈障壁画[重文] 安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した※海北友松が制作。「竹林七賢図」16面、「琴棋書画図」10面、「雲龍図」8面、「山水図」8面、「花鳥図」8面から構成されており、日本を代表する水墨画の大障壁画群。オリジナル作品は、現在は京都国立博物館に寄託(きたく)。京都文化協会とキヤノン株式会社が共同で推進する「綴プロジェクト」では全50面の高精細複製品を制作し、建仁寺に寄贈。
※海北友松(かいほうゆうしょう)(1533~1615) 桃山時代の画家。近江国坂田郡居住の武士海北綱親の5男(一説3男)として生まれる。友松は幼少のころ,東福寺に入ったが,画が巧みで,狩野元信に学んだと伝える。1573年,織田信長が浅井長政を亡ぼしたとき,長政に仕えた父や兄が戦死した。友松は還俗して武芸を磨き,海北家の再興をはかったが成功せず,桃山時代を代表する画家となった。子の友雪とその系統を海北派という。
◆方丈前庭園・大雄苑(だいおうえん) 白砂に緑苔と巨石を配した枯山水庭園です。七代目小川治兵衛の作庭で、植治の作品として枯山水は非常に珍しい作庭です。方丈前庭の西南隅にある七重石塔は、もとは十三重塔で、塔身に織田有楽斎(うらくさい)が天正10年(1582)6月2日、本能寺でたおれた兄信長の追善供養のため、供養塔とした旨の銘がある。ちなみに、徳川幕府の治世下には開山塔の溝の底に隠してあったものを、明治31年になってここへ移した。
◆方丈中庭・潮音庭(ちょうおんてい) 建仁寺本坊の中庭にある潮音庭は四方向から眺められる枯山水の庭です。三尊石を中心に大海が渦を巻いているように見えるでしょうか?
◆方丈中庭・〇△□の庭 「丸は水、三角は火、四角は地面」で自然の三大要素。単純な三つの図形は宇宙の根源的な形態を示し、密教の六大思想(地水火風空識)を地(□)、水(○)、火(△)で象徴したものといわれる。庭の中に、丸、三角、四角の形が見つかるのですが、「命」の源たる自然を表しており、「○△□」の軸は、命という字にも似るとか?
■東陽坊(とうようぼう)茶席[重文] 秀吉の北野大茶会のときに東陽坊長盛(真如堂東陽坊の僧で、利休門下)の作った茶席を移築したもの。草庵式二畳台目の席で、にじり口を入った左手に台目床を設け、右に中柱を立てて二重棚を吊り、壁には下地窓や大小の竹製の窓があり、明かりで華やかさと落ち着きをみせている。
◆建仁寺垣(けんにんじがき) 掘立て杭に三本の胴縁を渡し割りだけを掻き付けて、同じく割竹の押し縁で押さえ、頭に玉縁を付ける。建仁寺垣の上半分と同じ構造で丈は低いのが銀閣寺(ぎんかくじ)垣(がき)。銀閣寺垣は高さ90cmの石垣に高さ3.65尺の建仁寺の形式の垣を乗せる。