八坂の塔(法観寺)

【法観寺(八坂塔)】《臨済宗建仁寺派》
 聖徳太子が如意(にょい)輪(りん)観音(かんのん)の夢の中でのお告げによって、仏舎利(ぶっしゃり)三粒を納めた塔を建て、法観寺と号したのがその始まりと伝わる。創建当初は延喜式(えんぎしき)七ケ寺の一つで、四天王寺式の大伽藍を構える壮大な境内を持つ寺院であった。現在は、1440年(永享12)に足利六代将軍義教(よしのり)が再興した五重塔・薬師堂・太子堂があるだけで、他の伽藍は応仁の乱で灰燼(かいじん)に帰したという。この地はかつて渡来氏族の八坂氏が住んだ地といわれ、八坂の地名もこれによる。

■五重塔[重文] 高さ40m、6m四方、本瓦葺の和様建築。建物の特徴として初層から四層までに高欄(こうらん)がなく五層にだけある。高欄(こうらん)とは通路の端に設けられた欄干(らんかん)のこと。五重塔は再建されたものだが、心礎(しんそ)は創建当初の飛鳥時代のままであるという。その初層内部には五大力尊像(五大明王像)(五智如来?) を安置する。初層から二層へは急な階段で登ることができ、心柱が塔を貫く様子を、鏡を使って見ることが出来るという。また、戦乱の世では、この八坂の塔は眺望の良さから、塔をめぐっての争奪戦や陣を示す戦旗が翻(ひるがえ)ったとの歴史も伝わる。戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。
■木曽義仲の首塚 木曽義仲は源氏再興をめざし、1180年に以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)をもって挙兵、倶(く)利(り)加羅(から)峠での合戦で平氏をうち破り京へ上る。破竹(はちく)の勢いで征夷大将軍となり「朝日将軍」ともいわれたが、後白河法皇と衝突、※源範頼(みなもとののりより)、義経の大軍に近江の粟津で討たれる。その地に義(ぎ)仲寺(ちゅうじ)がその歴史を伝えているが、首は法観寺辺りに葬られたと伝える。以前は東山区金園町の旅館前に首塚が建てられていたが、旅館が廃業となり放置、八坂の塔の脇に移されたという。
※源範頼(?-1193) 鎌倉初期の武将。義朝の六男。遠江蒲(かばの)御厨(みくりや)に成長したので蒲の冠者ともいう。弟・義経とともに木曽義仲を近江粟津に殺し、平家を一ノ谷・壇ノ浦に破った。義経没落後、頼朝にとりいったが伊豆修善寺で殺された。
■三好浄蔵の伝説 三好(三善)浄蔵は、平安時代の文章(もんじょ)博士(はかせ)として著名な三善(みよし)清(きよ)行(ゆき)を父とし、幼少から非常に聡明で、特に加持(かじ)に長けていたといわれている。また、父の死に際し、「一条戻り橋」で父を蘇らせ、葬列を戻させたという逸話(一条戻り橋の名の由来)や、傾斜していた八坂の塔を一晩で元に戻したという伝説を残し、役行者(えんのぎょうじゃ)と並び称される修験者(しゅげんじゃ)でもある。