本能寺

【本能寺】《法華宗本門流大本山》TEL075-231-5335
 1415年(応永22)、日隆上人が五条坊門(仏光寺通)油小路に創建、はじめ本応寺と号したが、のち本能寺と改めた。※天文法華の乱後、油小路通蛸薬師に移った。1582年(天正10)、には織田信長の仮宿所となり、明智光秀の襲撃を受けた。「本能寺の変」とよばれ、建物は焼亡した。1587年(天正15)秀吉によって現地に再建される。天明・元治にふたたび類焼した。ちなみに、本能寺の「能」の字は右側の2つの「ヒ」が「去」のような字に替えられている。これは本能寺が度重なって焼き討ちに遭っているため、「『ヒ』(火)が『去』る」という意味で字形を変えているといわれている。
※天文法華の乱 延暦寺が洛中洛外の日蓮宗寺院21本山に対して延暦寺の末寺になるように迫ったが、各本山はこれを拒否。延暦寺は後奈良天皇に法華宗討伐の許可を求め、約6万の衆徒で、洛中洛外の日蓮宗寺院21本山をことごとく焼き払った。隆盛を誇った日蓮教団は壊滅し、宗徒は洛外に追放された。1542年(天文11)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。


■本堂 昭和3年(1927)の造営。本尊は、日蓮が定めた久遠常住具足の「南無妙法蓮華経」の曼荼羅。
■供養塔・墓 本堂の背後には織田信長・信忠父子供養塔や本能寺の変に斃れた人々の慰霊塔があり、その南には江戸末期の南宋画家、浦上玉堂・春琴父子や新村出博士の墓がある。
■寺宝 伝藤原行成筆書巻(本能寺切)[国宝]
    花園天皇宸翰御賀札・銅鏡[重文]
□信長と本能寺 日隆上人の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。 本能寺は、早くから種子島に布教していたことから、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。そのため織田信長は、日承に帰依してこの寺を上洛中の宿所としていた。1582年6月21日(天正10年6月2日)、ここで信長が明智光秀率いる軍勢に包囲され自刃する。