銀閣寺

【銀閣寺(慈照寺)】《臨済宗相国寺派》℡075-771-5725
 文明14年(1482)、室町幕府、8代将軍・足利(あしかが)義(よし)政(まさ)は将軍職を実子・義(よし)尚(ひさ)に譲り、祖父・義(よし)満(みつ)の造営した北山(きたやま)殿(どの)(金閣)にならって、東山山荘を造営、義政の死後8年後に完成、遺言により寺となり、相国寺(しょうこくじ)に属した。義政が集めた珍器類や伽藍は、銀閣・東求堂(とうぐどう)を除いて、その後の兵火で焼失する。寺名は義政の法号慈照院殿にちなんでいる。


■銀閣寺垣(がき) 総門から中門にかけた参道は、椿や樫(かし)の木など12種類で作った生垣が続き、その足元の竹垣を『銀閣寺垣』という。この参道は、短い道を少しでも遠くに感じるような造りになっている。
■銀閣(観音殿)[国宝] 1489年の上棟式で完成は不明。下層“心(しん)空(くう)殿(でん)"は広縁をもつ住宅風で、まるで涼みのためのようである。上層“潮音閣(ちょうおんかく)"は禅宗様式で観音像を安置。窓は花頭(かとう)窓(まど)(火灯窓)。ちなみに、金閣は金箔をおいているが、銀閣には銀箔をおいた形跡はない。義政は完成前に没しているので、銀箔で仕上げる予定であったかどうかは不明。
■本堂(方丈) 中門、方丈玄関の唐門とともに寛永の再建。
◆銀閣寺型手水(ちょうず)鉢(ばち) 非常に斬新なデザインで、数寄者に好まれている。
■東求堂(とうぐどう)[国宝] 語源は「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」1486年、義政の持仏堂(じぶつどう)として建てられた書院建築。内部の同仁(どうじん)斎(さい)と呼ぶ4畳半の部屋は、日本住宅の基本、書院造の原型といわれている。4畳半の部屋の間取りは、まさにここから始まったという。
■庭園[特名・特史] 西芳寺(さいほうじ)(苔寺)庭園を模(も)したといわれ、義政の指導のもと、善阿弥(ぜんあみ)の作庭と伝える。下段は“錦(きん)鏡(きょう)池(ち)"を中心にした池泉回遊式。池中には寄進した守護大名たちの名をつけた石がある。上段の庭は昭和6年に発掘され、“お茶の井"といわれる湧き水の石組み“相(そう)君(くん)泉(せん)"がある。上下、二段の庭園になっているところなどは、西芳寺とそっくり。
■銀沙灘(ぎんさだん)・向(こう)月(げつ)台(だい) 中国の西湖(せいこ)の風景を模し、月待山からのぼる月の美を鑑賞するために造られたといわれている。創建時、この盛砂はなく、江戸時代の出現と考えられる。月は砂の中のガラス質(石英(せきえい))を照らし、きらきらと輝き、銀閣に反射して銀色の姿をみせるという。江戸時代の観光ガイドブックとも言うべき1780年刊の『都名所図会』にあらわれ、1799年刊の『都(みやこ)林泉(りんせん)名勝(めいしょう)図会(ずえ)』にも、それぞれ絵入で紹介されているが、二つの図会の20年近い年月の間でも銀沙灘や向月台の形態は異なる。向月台はまだ円筒の台状に描かれていて今とは趣(おもむき)を違える。明治の資料では向月台の姿はずいぶん高くなり、しかもお椀を伏せたような形。長い歳月のあいだに少しずつ形を変え、今に至り、現在では富士山の型のイメージが強まった感がある。
◇銀閣寺と義政 
応仁の乱の後、義政はかつて弟義(よし)視(み)が住し、戦乱で焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地として選考し、文明14年(1482)に東山山荘造営に着手。翌年に常御所(つねのごしょ)が完成すると、政務を嗣子(しし)義尚(よしひさ)に譲り、義政はこの地に移る。文明18年(1486)、自身の持仏堂として東求堂が完成。長享元年(1487)には東山殿会所、泉殿(弄清亭(ろうせいてい))が完成し、長享3年(1489)3月には銀閣の立柱(りつりゅう)上棟(じょうとう)が行われる。その年の10月に義政は病に倒れ翌年1月7日銀閣の完成を見ることなくこの世を去る。義政が想いのままに仕上げていった東山山荘の造営には、常に相談相手となり、協力をした相国寺の禅僧・亀泉集証(きせんしゅうしょう)、横川景三(おうせんけいざん)などがいた。東山殿は特に横川景三(おうせんけいさん)を相談相手に義政が好んだ西芳寺を手本に造られたといわれ、観音殿は祖父義満の残した金閣舎利殿にならって建てたもので、義政は文明19年祖父の造った舎利殿を見直すため、不意に鹿苑寺を訪れている。
 また東山殿の庭園は義政の築造庭園の中でも現在残っている唯一の遺構。このように優れた趣味に生きた義政の側近には、相国寺の禅僧とともに、実際の工事にたずさわった優秀な作庭家たちがいた。義政がもっとも信頼をして工事を任せたものに河原者の善阿弥がいた。善阿弥は義政の命により蔭涼軒(いんりょうけん)の庭、妙蓮寺の庭園、室町上御所などを担当したことが知られている。
◇東山文化 足利将軍は代々美術品の蒐集に熱心で、特に義満は対明貿易を積極的に促進し、多くの名品を請来。また日本にもたらされた多くの名画や名器、墨蹟などは、平安から室町にかけて中国へ渡った禅僧たちによって請来、全国の大禅刹(ぜんさつ)に収蔵されていたが、多くは歴代の将軍によって献上させられ、将軍家のものとなる。これらの名宝が集められて東山殿の宝庫に収蔵され、義政は同朋衆の一人能阿弥とその子芸阿弥に命じてこの東山(ひがしやま)御物(ぎょもつ)の選定。義政はこうした東山御物の制定と同時に、東山時代に書院造りの建物が成立するに伴い、書院飾りの法式も能阿弥に命じて作らせ、相阿弥にいたって完成。また能阿弥は茶の湯の作法も発展させ、村田(むらた)珠光(じゅこう)について学び、珠光を義政に推奨した。
◇大文字と銀閣寺
長享3年近江の陣中で24歳の義尚はこの世を去る。義政は悲しみ、その年の新盆を迎えるにあたり、義尚の菩提を弔うため、横川景三の進言によって如意ヶ岳の山面に白布をもって「大」の字を象るよう近臣芳賀掃部頭に命じる。横川景三は東求堂から山面を望み、字形を定めて火床を掘らせ、お盆の16日に松割木に一斉に点火して義尚の精霊を送ったという。これが「大文字の送り火」のはじまりという。
◇復興と荒廃
 室町幕府の末期、天文19年(1550)三好長慶と15代将軍義昭との戦いが慈照寺の周辺で展開され、堂宇は銀閣と東求堂とを残し悉く焼失。また織田信長が義昭のため二条城を築いた際、慈照寺庭園の名石九山八海石を引き抜くなど、室町幕府の衰退と共に慈照寺も荒廃していった。江戸時代の初期慶長20年(1615)宮城丹波守豊盛による大改修がなされ、今の銀閣寺の現況はこの慶長の改修によるところが大きい。銀閣寺は将軍の山荘として造営されたが、改修に当たって、庭園や建築は、禅寺として、禅宗風の趣を取り入れ修復がなされたと思われる。
◇岡本太郎の“銀沙灘の謎”より
 「正直いって、はじめて見たとき、私自身がギクッとしました。この盛り砂の形も不思議です。いったいこんな形がかつての日本美学の中にあったでしょうか。幾何学的でありながら、なんともいえぬ非合理的な表情をたたえて、いわゆるモダンアートにしかみられない。不思議に美しい形態です。銀沙灘の形態が庭全体を抱いて立つ月待山の峰の線とあきらかに対応していることや、月待山からのぼる月のあかりで銀沙灘が湖となり、向月台の頂上が満月となって輝き、地上から照らし返す幻想的な意味を込めたもの」であると想像力をはたらかせている。
◇歴史小説家の澤田ふじ子の推論
 『月待山から流れてくる水をひいた銀閣寺の錦鏡池には長い歳月の間に白川砂がたまる。浅くなって水があふれるため底をさらい上げる。それだけでも寺僧には大変な労力だ。さらにその砂を寺の外に運び出すとなれば人夫も雇う必要があるし費用もかかる。そこで一人の智恵者が平らにしたり砂盛りしたりして庭の景観にすることを考え出した。』