将軍塚青龍殿

【将軍塚青龍殿】《青蓮院飛地境内》℡075-771-0390
■将軍塚の由来 桓武天皇は都を奈良から長岡に移されたが、その後、和気清麻呂は天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨を進言、天皇はその勧めに従い794年(延暦13)、平安建都に着手する。天皇は、都の鎮護のために、高さ2.5メートル程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じた。これが、この地を「将軍塚」と呼ぶ由来。この「将軍塚」は、国家の大事があると鳴動したという伝説が、源平盛衰記や太平記に残されている。
また、延元年間(1338年頃)、新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を破り、近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地になったという。将軍塚は、「強者どもが夢の跡」でもある。乃木大将、東郷元帥、菊池大麓、大隅重信 等の明治の元薫のお手植の松が植えられ、石柱や石碑が後継の松と共に残され、偉人達がこの地から京都の町を見下して、豊かな日本の国造りを心に誓ったのではないかと想像される。


■青龍殿 新たな新名所、青蓮院門跡の飛地境内「将軍塚大日堂」が変わりました。そこに、「青龍殿」という大護摩堂が2014年10月に落慶。この建物は、かつて北野天満宮前にあり、京都府有財産で解体が決まっていた、大正時代の建物「平安道場」武道館を移築・再建したもの。これを青龍殿の外陣とし、その後ろ側に収蔵庫と青龍殿内陣を新築。正面に修復された青不動の複製画が飾られて、その奥に[国宝]青不動が収めてある。左には大日如来の石仏が安置。
◆不動明王二童子像(青不動)[国宝] 青不動と呼ばれ、日本三不動の一つで、他に園城寺黄不動(曼殊院にも模写黄不動[国宝])、高野山明王院の赤不動がある。青不動は、信仰の上でも、美術的にも、史料的にも、正に現存する仏教画のなかでも至高のもので、平安時代の飛鳥寺玄朝によって描かれたと伝わる。博物館に出品中であったが、新しい住処で保存されることとなる。

■展望台 標高220m。2014年10月4日に完成。貴重な大木の檜材を用いた大舞台は「清水寺の舞台」の約4.6倍に当たる1046㎡。その舞台の中心には、デザイナーである吉岡徳仁さんがデザインされた『ガラスの茶室--光庵』が記念展覧。ガラスの茶室は2016年4月頃まで展覧されていた。
■庭園 展望台に続く庭園には、紅葉(約220本)、桜(約200本)、源平垂れ桃、藤、シャクナゲ、サツキ等が植えられ、特に紅葉、桜の名所となっている。
また、青龍殿庭園は回遊式庭園に枯山水庭園を取り込み、室町時代、すなわち日本庭園が技術的にも芸術的にも最も優れた時代の手法を用いて作庭されたもので、一見して作庭者の企図とする着想が庭の隅々まであふれている野心作。また、東屋からの将軍塚、西山の遠望は見事な借景庭園。