六波羅蜜寺

【六波羅蜜寺】《真言宗智山派》℡075-561-6980
 963年(応和3)、※空也上人により開創。上人が悪疫退散の祈念をこめて作った十一面観音像を本尊として起こした寺で、西光寺と称した。のち地名の六原にちなんで六波羅蜜寺と改称した。高弟の中信(ちゅうしん)上人によりその規模増大し、天台別院として栄えた。平安後期、平忠盛が当寺内の塔頭(たっちゅう)に軍勢を止めてより、清盛・重盛に至り、広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が栄えた。その数5200余りに及んだが、1183年(寿永2)平家没落の時、兵火を受け、諸堂は類焼した。その後、源頼朝、足利義詮(よしあきら)、さらに秀吉の補修を受け、多くの塔頭や子院を持っていたが、明治維新に際して寺領を没収された。しかし、藤原・鎌倉時代のすぐれた仏像、肖像彫刻が多数ある。西国第17番の札所。

■本堂[重文] 1363年(貞治2)の再建。内部は板敷きとし、須弥壇を設けた内陣(ないじん)とその周囲をとり囲む外陣(げじん)とに大別される。外陣は正面二列目の柱を四本もはぶいて、参詣人の礼拝に便利なようにと広い部屋となっている。天井は一部を化粧屋根裏とする以外はすべて組入(くみいれ)天井とし、虹(こう)梁(りょう)上の板(いた)蟇(かえる)股(また)や内陣須弥壇の擬宝珠(ぎぼし)の形などに、鎌倉時代の名残をとどめている。明治以降荒廃していたが、昭和44年、開創1,000年を記念して解体修理が行われ、創建当時のものと思われる梵(ぼん)字(じ)、三鈷(さんこ)・独鈷(とっこ)模様の瓦をはじめ、今昔(こんじゃく)物語、山槐記(さんかいき)等に記載されている泥塔8,000基が出土した。
◆十一面観音立像[重文] 須弥壇中央の厨子内に安置する本尊。高さ2.5m一木彫成の優美な仏像で、空也上人開創当時のものといわれる。
■収蔵庫 藤原、鎌倉期の重要文化財の宝庫。
◆四天王立像[重文] 増長天(鎌倉)以外は藤原時代の作。
◆地蔵菩薩立像[重文] もと地蔵堂の本尊と伝える。高さ1.51m木彫、彩色に截金文様をほどこした典型的な藤原後期の優作。
◆空也上人立像[重文] 鎌倉時代、運慶の四男康勝の作。高さ1.17mの小像で木造彩色。胸に金鼓、右手に撞木、左手に鹿の杖をつき、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承のままに洗練された写実彫刻で、あまりにも有名。
◆平清盛坐像[重文] 平家物語に描かれている清盛の傲慢さは全くなく、仏者としての気品を覚える。一門の武運長久を祈願し、朱の中へ血を点じて写経した頃の太政大臣浄海入道清盛公の像。
◆薬師如来坐像[重文] 中信上人が天台寺院に改めたときの本尊と伝える。空也上人在世頃は現世の幸福をもたらすという薬師如来像が崇敬された。
◆運慶・湛慶坐像[重文] 運慶より一世代後の時代の作と推定。もと十輪院の遺仏で、運慶一族の菩提寺であったことから本尊の脇侍のように祀られていた。
◆閻魔王坐像・吉祥天立像[重文] 閻魔王は当寺の北にあった閻魔堂の遺仏。吉祥天は由来が不明。
◇平清盛供養塔 本堂の正面左側に阿古屋塚とならんで建つ。
◇阿古屋塚 本堂の北にある。五条坂の遊女といわれ、平家の侍大将悪七兵衛景清の情けをうけ、畠山重忠から景清の行方について琴責めで詮議をうけるという、浄瑠璃『壇浦兜軍記』によって世に有名となり、のち、ここに墓ができたという。

※空也上人(903?~)醍醐天皇の第二皇子で、若くして五畿七道を巡り苦修練行、尾張国分寺で出家、空也と称した。上人は自ら十一面観音像をつくり、車に安置して、京都の市中を曳き廻り、病人のそばで茶をたて、小梅干と結び昆布を入れて仏前に献じ、その茶を授けて念仏を唱え、病魔を鎮めたという。この伝統のお茶は、いまも皇服茶(おうぶくちゃ)として、正月の三日間だけ参詣者に授与されている。つねに庶民の中にいて庶民を助けるために生きた空也上人を、人々は親しみをこめて「市の聖(いちのひじり)」と呼び慕った。