高台寺・圓徳院

【高台寺】《臨済宗建仁寺派》
 慶長11年(1606)、豊臣秀吉の正室・北政所高台院湖月尼が秀吉の菩提を弔うために創建、正しくは高台寿聖禅寺という。徳川家康は財をおしまず寺の造営を援助、北政所は徳川氏の手厚い庇護のもとに余生を安楽に過ごしたという。享年75歳(76?)。創建当初は伏見城の建物の一部を移して壮麗を極めたが、寛政元年(1789)の火災、文久3年(1863)には、浪士による焼き討ち、明治18年(1885)の出火で建物のほとんどを失った。

■表門[重文・桃山] 境内の南西に飛び離れて立っている。三間一戸、切妻造り、本瓦葺の薬医門(やくいもん)で、蟇股(かえるまた)には動植物の透かし彫りを施し、冠木(かぶき)には金色の金具をはめる。もと、伏見城にあって、加藤清正が建てたものを移したと伝える。
■鬼瓦席・遺芳庵(いほうあん)茶席 鬼瓦席はもと小川武者小路にあったものを移したもので灰屋紹益(はいやしょうえき)遺愛の茶室といわれ、屋根の鬼瓦に因んで名づけられた。遺芳庵は灰屋紹益の妻となった島原の吉野太夫を偲んで建てたものといわれ、建物の西面の壁面一杯に吉野窓とよぶ大きな円窓をつくっている。
■庭園[名勝・史跡] 開山堂をはさんで東西二庭からなり、いずれも池を中心にした池泉観賞式庭園で、西庭は※小堀遠州の作庭と伝え、池中(偃月池(えんげつち))に亀島を設け、池の南部を小高く盛土をして平庭とし、鶴石組をつくり、鶴の首が池の中に入る形を表わしている。東庭は臥竜池(がりゅうち)といい、室町時代の池泉の遺構といわれている。夜の特別拝観の時、臥竜池に映し出される紅葉は、実にすばらしい。
※小堀遠州(1579~1647) 江戸初期の武将・茶人。近江生まれ。作事奉行として仙洞御所、二条城二ノ丸庭園、金地院の茶席・庭園、孤篷庵[大徳寺塔頭]などの建築、造園にあたる。墓は孤篷庵と仏国寺(深草大亀谷)。
■観月台[重文・桃山] 方丈から開山堂をつなぐ橋廊の中ほどにあり、 檜皮葺(ひわだぶき)きの四本柱の建物で、三方に唐破風(からはふ)をつけ屋根の下から観月するための建物。
■開山堂[重文・桃山] もとの持仏堂で、内部の床下は総瓦敷とし、天井は格天井(ごうてんじょう)あるいは折上小組(おりあげこぐみ)の格天井とし、秀吉が使用した船の天井、北政所が使っていた御所車の遺材を用いたものといわれている。堂内中央には三江紹益(さんこうしょうえき)像、左右脇壇には木下家定(ねねの兄)、堀監物の像を安置する。
■臥竜廊 開山堂と霊屋をつなぐ廊下で、竜が臥(ふ)しているようにみえる。
■霊屋(おたまや)[重文・桃山] 創建時の建築。屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)で、檜皮葺(ひわだぶき)。正面に唐破風造の向拝をつけた建物。内部の須弥壇中央には本尊隨求菩薩(ずいぐぼさつ)像、左右の厨子には秀吉、北政所の坐像を安置し、その床下は北政所の墓所になっている。また、花鳥図、浜松図および三十六歌仙図はともに土佐光信の筆、書は八条宮智仁の筆となる。ちなみに、霊屋が南面しているのは、秀吉の墓所・阿弥陀ヶ峰の豊国廟を拝しているのではと推測される。
■高台寺蒔絵(まきえ)[重文] 霊屋の厨子扉、須弥壇に施された蒔絵は、寺所蔵の調度類の蒔絵とともに、桃山期を代表する蒔絵様式で有名。須弥壇の蒔絵は、勾欄(こうらん)・長押(なげし)・柱は楽器文を散らし、階段には流水に筏(いかだ)と桜花を配した花(はな)筏(いかだ)文(もん)。
■傘亭(安閑窟)・時雨亭[重文] 利休の意匠による茶席であり伏見城から移築したものと伝わる。傘亭はカラカサを開けたように見えることからその名があり、伏見城にあった時は、舟でこの茶席に出入りしたといわれている。時雨亭は入母屋造り、茅葺、二階建て、階下を待合として、開け放った階上から眺望を得るようになっている。

【円徳院】《高台寺塔頭》
 高台寺の塔頭の一つ、木下利房(北政所の甥)の宿舎としてつくった邸宅を仏堂としたのが起こりと伝える。境内には木下利房・利当(としまさ)父子等の墓と称する巨大な五輪石塔がある。現在の方丈は寛政7年(1795)以降の建物で、襖絵の山水図28面および竹林図4面[重文]は、長谷川等伯の筆といわれ、もと大徳寺三玄院の客殿襖絵であったと伝える。
■庭園 伏見城から移したと伝える枯山水庭園で、枯池を中心とし、背後の築山に三尊石の巨石を組み、枯滝を設け、池中に鶴亀両島を配し、石橋を架けた豪壮な庭園。庭園の右にある手水鉢は「桧垣手水鉢」とよばれ、石造層塔の笠石(鎌倉期)を横に向け、中央部を彫り手水鉢としたもの。