長楽寺

【長楽寺】《時宗》℡075-561-0589
 805年(延暦24)に桓武天皇の勅命によって最澄(伝教大師)を開基として創建。古くから歴代の天皇の帰依が厚かった。創立当初は比叡山延暦寺の別院として建てられた天台宗の寺であったが、鎌倉初期に浄土宗に改宗。しかし、その後また、室町初期に当時の一代の名僧・国阿(こくあ)上人に譲られ、時宗となり、現在は時宗の末寺。明治39年には、時宗の総本山であった七条道場金光寺と合併し、時宗にまつわる多くの宝物を安置する寺となる。また、建礼門院が出家したことで有名。


□長楽寺と建礼門院 1185年(元暦2)5月1日に阿證房印誓(西)上人(法然上人の高弟)を戒師として出家、後、10月に大原寂光院に移る。長楽寺には建礼門院に関する数々の遺宝が残る。
◆安徳天皇御衣幡(複製) 8歳の安徳天皇が最後まで着られていた形見の直衣(のうし)を16旒の仏幡に縫い、菩提を弔ったという。その幡の実物が現在も2旒保存され、春季特別展の時には一般公開している。建礼門院の唯一の遺宝で、約800年前当時の平絹の繊維に間違いなく、古代の繊維の資料としても注目。
◆建礼門院御影像(赤外線写真) 29歳で出家した建礼門院の御影といわれている。敵軍に捕われた建礼門院は、約1ヵ月後に京に帰還したが源氏方の目は厳しく、この御影も源氏方の目を逃れるため、当時は表面を墨で覆い隠し、祀られていたと伝えられる。実物は春季特別展の時に一般公開。
◆建礼門院木像 四天王寺大仏師、松久朋琳作。建礼門院御影像を模写して木像に彫刻したもの。
◆安徳天皇御影 前住職の時代に渡辺拍舟画伯によって模写。その原画は泉涌寺におさめられ、平安時代の似せ絵師の家柄であった宅間法眼作と記す。
◆本尊 最澄が自ら彫ったと伝えられている准胝(じゅんてい)観音で、二頭の龍にまたがった非常に珍しい観音。本尊は勅封の秘仏として安置され歴代の天皇の即位式にだけ御開帳されることを恒例としている。
◆一遍上人像[重文] 応永27年(1420)慶派大仏師、廿代康秀作、時宗元祖一遍上人像。

※遊行上人(ゆぎょうしょうにん)像? 京都における遊行上人のもっとも重要な道場であった七条道場金光寺に伝わったもので、明治40年に当寺に合併され移管されたもの。一遍上人像[重文]と遊行二祖真教上人像を除いた他の像は、七条道場の住持であり、遊行歴代の法燈を踏襲した祖師像。鎌倉時代に仏像彫刻で頭角をあらわした運慶・湛慶・快慶などの流れをくむ七条慶派大仏師が、彫刻したもの。
※遊行(ゆぎょう)上人 時宗の総本山遊行寺(清浄光寺・神奈川藤沢市)の歴代住職のこと。特に、開祖一遍またはその弟子の真教のことをいう。また、「遊行」とは僧侶が修行のため諸国をめぐり歩くことをいい、もともとは開祖一遍上人の異称だったらしいが、歴代の上人(時衆のリーダー)も諸国をまわって布教したため、遊行上人と呼ばれ、念仏をすすめお札を配って全国を歩いた。
◆布袋尊像 東福寺開山聖一国師(1202-1280)が帰朝の際、三国の土をもって自作したという布袋尊像。鎌倉時代にその技法が中国より伝わったという泥像であって、今日まで保全されている珍重なもの。また現在京都の旧家のかまどの上に祀られている七体の布袋は、当時内乱で笑を失っていた家庭に笑いを取り戻させるため、国師が人形師に命じてこの像をうつさせ、各戸に配らせられたものだという。京都七福神の一つ。
◆頼(らい)山陽(さんよう)の墓 江戸後期の儒学者(1780~1832)。『日本外史』の著者として有名。幕府に対して遠慮のない批判を含むこの歴史書は、天下公刊を可能にし、幕末の志士に広く読まれ、尊王攘夷運動へと発展した。遺言によりここに葬られた。
◆建礼門院十三重塔 長楽寺山山腹八丁台と呼ぶ地に建立してあったが、明治初年現在地に移す。建礼門院が髪をおろされた名残の御髪塔(ごはっとう)、舎利塔とも伝わる。
■庭園 足利八代将軍義政の命をうけ、相阿弥が銀閣寺の庭を作るとき、試作的にこの庭を作ったと伝える。苑内に東山をとりいれ”自然をとりいれた庭”として著名である。