知恩院

【知恩院】《浄土宗総本山》℡075-531-2111
 承安5年(1175)に※法然上人がはじめて浄土宗を布教したところであり、上人入滅の地でもある。上人の没後、源智上人が勢至堂(せいしどう)を建てて本堂としたのに始まる。織田信長や豊臣秀吉、のちに徳川家康からの庇護を受けて現在の広大な堂宇(どうう)が築かれた。家康は法然上人の熱烈な崇拝者と自称し、厚く知恩院を保護、徳川家の菩提寺とし、幕府の京都における根拠地とした。
※法然(1133~1212) 平安末期から鎌倉時代の僧で、浄土宗の開祖。美作(みまさか)(岡山県)生まれ。比叡山で天台宗教学を修めたのち、浄土宗を開く。旧仏教の敵視、加えて門弟に帰依(きえ)した官女(松虫(まつむし)・鈴虫(すずむし))の出家事件で土佐(高知県)に流罪。赦免され京で没。


■三門(山門)[重文] 元和5年(1619)の建立で日本最大。京都三大門の一つ(他に南禅寺三門・東本願寺大師堂門)。楼上に霊元天皇宸(しん)筆(ぴつ)の「華頂山」の額を掲げる。上層内部は宝冠(ほうかん)釈迦(しゃか)如来(にょらい)や十六(じゅうろく)羅漢(らかん)を安置。この巨大な三門は、城の役割をしていて、二条城とともに、御所を監視するためであると伝える。
『三門』は三解脱門(げだつもん)(空(くう)・無相(むそう)・無作(むさ))の略といい、禅宗や浄土宗寺院の門によくみられる。五間三戸の二重門で二階楼上に釈迦・十六羅漢をおくのが普通。『山門』という名称は寺院が山号をもっていたのに基づくと上人像を安置する。本堂の棟上に大瓦がおかれているのが見えるが、このような大建築が見事に完成すると魔がさし、不吉なことが起こるから、未だ完成していないことにしてあるという。
■御影堂[国宝] 1639年(寛永16)の再建。内陣正面に大正天皇宸筆の「明照」の勅額を掲げ、中央須弥壇上の厨子内には法然上人の御影を安置する。建築細部には豪華な桃山建築の名残を随所にとどめる。
 なお本堂の棟上に二枚の大瓦が置かれているのは、かかる大建築が見事に完成すると魔がさし、不吉なことが起こるから、建物はいまだ完成していないことにしてあるのだといわれている。また、一説に徳川家に対し、なお建築中と称して補修の継続を願う方便としたともいわれている。
◆左甚五郎の忘れ傘 本堂の正面の東寄りの屋根下にある。名匠・左甚五郎が魔よけのため、わざと置いたものといわれ、古来、知恩院の名物になっている。実際は、寛永再建の際、時の住職・霊厳上人が弥陀の六字(南無阿弥陀仏)を記して火災よけにしたという。傘が入用のときは雨の日、傘は水を呼ぶ。
◆鴬張りの廊下 本堂と集会堂(しゅうえどう)と大方丈をつなぐ540mの廊下は鴬張り。鴬張りの廊下は二条城にもあり、曲者の侵入を防ぐためのものだといわれている。二条城と知恩院はよく似ている。両者で御所の監視なのかもしれない。
◆大杓子 大坂夏の陣のとき、三好清海入道がこの大杓子をもって暴れたといい、杓子は敵をメシとるという縁起物で、戦場で使われたという。また、大杓子がこうしてお寺にあるのは、杓子がご飯をすくう道具であることから、人の苦を救うという救済の意味にあてはめている。
■大方丈・小方丈[重文] 禅宗寺院の方丈とは異なった豪壮な宮殿風の佇まいがみられる。狩野(かりの)尚(なお)信(のぶ)・信政・興以(こうい)筆と伝える障壁画がある。
◆大方丈庭園 南庭は南北時代の作庭で、伝・夢想国師作。東庭は二十五薩来迎図に因む庭園。
■梵鐘(ぼんしょう) 重さ75トン、高さ竜頭(りゅうず)下まで3.33m、口径2.74m、厚さ29cm、我が国屈指の銅鐘。大晦日の除夜の鐘はお馴染みである。
■崇泰院(知恩院塔頭) 親鸞廟堂の跡といわれ、本願寺の旧地。親鸞上人は滑石街道の延仁寺で火葬、遺骨は大谷に埋葬されたが、1272年この地に改葬され、廟堂を建てたのが本願寺の起こりと伝える。
◆知恩院の七不思議
 ①左甚五郎の忘れ傘 ②鴬張りの廊下  ③大方丈の三方正面真向きの猫
 ④大方丈菊の間にある抜け雀      ⑤大方丈入口廊下の大杓子
 ⑥三門にある白木の棺の大工夫妻の木像 ⑦黒門の前にある瓜生石